公開日:2018.6.9
那覇空港からわずか10km。ゆいレールの首里駅から徒歩15分にある首里城公園にやってきました。今回は琉球の歴史を振り返りながら首里城を歩きます。
首里城は1406年に尚巴志が居城としたのが最初といわれています。その後、尚巴志は1429年に琉球を統一。1879年に19代尚泰王が明治政府に明け渡すまで、500年近くもの間、琉球王国の中心として栄華を極めました。
1945年、沖縄戦によって首里城は焼け落ちます。現在見ることのできる首里城は1992年に18世紀の首里城をモデルとして復元されたものです。また、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録され、毎日多くの人でにぎわっています。
駐車場と休憩所になっている首里杜館(すいむいかん)を抜け、順路の最初に現れるのが鮮やかな朱色が美しい守礼門(しゅれいもん)です。牌楼(ぱいろう)とよばれる中国の伝統的な建築様式の門で、二千円札にも描かれています。
守礼門は4代尚清王時代(1527~1555)に創建されましたが沖縄戦で焼失。1958年に再建され、現在に至ります。扁額に掲げられた「守禮之邦」とは「琉球は礼節を重んずる国である」という意味。中国皇帝の使者が訪れる際に掲げていたものなのだそう。
現在、首里城の玄関口として知られている守礼門ですが、琉球王国の時代には上の綾門(あやじょう)と呼ばれていました。守礼門から500mほど綾門大道(あやじょううふみち)を西に下ると中山門(ちゅうざんもん)があり、下の綾門と呼ばれていました。綾門大道には細かく砕いた石が敷き詰められ、道の両側には王家の別邸が立ち並んでいました。訪れた人々は首里城の広大さと美しさを肌で感じながら進んでいくことになります。(写真は現在の綾門大道)
守礼門をくぐり、左手にあるのが園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)。琉球国王は城から出る際、ここで必ず拝礼をしました。また、聞得大君が斎場御嶽で就任儀式を行う御新下り(おあらおり)の際、最初に参拝しました。園比屋武御嶽石門は王家の御嶽であり、琉球王国の聖地なのです。
琉球石灰岩でできた園比屋武御嶽石門は1519年に3代尚真王によって創建されました。その後、沖縄戦で大破するも修復され、現在では世界遺産に指定されています。そして今でも拝所として地元の方が祈りを奉げ続けています。
次に見えてくるのがこの大きな門、歓会門(かんかいもん)です。美しい曲線を描く石のアーチ門の上に木造の櫓が乗っている歓会門は3代尚真王の時代に創建され、沖縄戦で焼失。1974年に復元されています。
別名「あまへ御門」(あまえうじょう)とも呼ばれ、中国皇帝の使者への歓迎の意を込めて歓会門と名付けられました。「あまえ」とは琉球の言葉で喜ばしいことを意味します。
歓会門の両脇にはシーサーが置かれ、魔除けとして城を守っています。
歓会門を過ぎたら、右手に見えてきた階段を上ります。
階段を三分の一ほど登ると右側に少し下がる階段が出てきます。階段を降りてみると水が見えてきました。これが龍樋(りゅうひ)です。
龍樋は王宮の飲料水として使用された湧き水です。中国皇帝の使者が来た時はこの水を宿舎まで毎日運んだといわれています。また、水が出ている竜頭の石彫刻は1523年に中国からもたらされた、なんと500年前のもの。復元されたものが多い首里城の中でも、実はとても貴重な存在です。
龍樋のまわりには冊封七碑(さっぽうしちひ)と呼ばれる石碑が建てられています。これは中国皇帝の使者が龍樋の水の清らかさを称え歌ったもの。石碑のほとんどが沖縄戦で破壊されてしまったが、拓本をもとに復元され、現在に至ります。
龍樋から元の階段に戻ると目の前に現れる、扁額の「瑞泉」の文字。これが首里城の第二の門、瑞泉門(ずいせんもん)です。瑞泉とはみずみずしく美しい、めでたい泉という意味で、「ひかわ御門」とも呼ばれています。
瑞泉門は1470年頃創建されますが沖縄戦で焼失。1992年に復元されています。歓会門とは違い、左右の分かれた二つの壁に木造の櫓が乗っています。
だいぶ高台に上がってきました。扁額の通り、漏刻門(ろうこくもん)です。漏刻とは中国語で水時計のこと。当時、櫓の中には時間を計るための水槽(水時計)がありました。決まった時刻になると係りの役人が太鼓を鳴らし、時刻を知らせました。
かごに乗っての登城を許された身分の高い役人も国王に敬意を払い、この門でかごを降りたことから「かご居せ御門」(かごいせうじょう)とも呼ばれます。
創建は15世紀頃とされ、老朽化で撤去されていましたが、1992年に復元されたています。
漏刻門を過ぎると真下に久慶門(きゅうけいもん)、果ては那覇市から浦添市まで一望できる高台に。
漏刻門の前にある円盤。これは日影台(にちえいだい)と呼ばれる日時計です。円盤の表面には十二支が彫り込まれ、中央に刺さった棒の影がどの位置に来るかで時間をはかりました。正午の前後の時間をはかり、水時計の補助的に使われました。
1739年に設置したと伝えられますが、沖縄戦で破壊され、2000年に復元されました。実はこの日時計、現在の日本の標準時間より約30分遅れているのだとか。ぜひ試してみてください。
日影台のすぐそばにある建物の中にあるのが、万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)。歴史資料によると1458年に鋳造され、首里城正殿にかけられていたとされますが実際にどこにつけられていたのかはわかっていません。
鐘はレプリカで、実物は沖縄県立博物館に収蔵されています。万国津梁とは「世界の架け橋」という意味。鐘には「琉球王国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国と日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」と銘文が刻まれています。
また、万国津梁の鐘のあるこの建物は供屋(ともや)という施設ということはわかっているものの、何に使うのかはわかっていません。鐘とともに2000年に復元されました。
朱塗りの大きな建物が広福門(こうふくもん)です。広福とは「福を行き渡らせる」という意味。ここまで見てきた門と違い、建物そのものが門というつくりになっています。広福門の創建は不明。明治末期に撤去された後、1992年に復元されました。
向かって左側が戸籍の管理を行う大与座(おおくみざ)、右側が神社仏閣などを管理する寺社座(じしゃざ)という役所でした。現在は券売所として使用されています。こちらでチケットを購入しますが、有料エリアは奉神門の先からとなります。
広福門の前にある拝所が首里森御嶽(すいむいうたき)です。首里森(すいむい)とは首里城の別名。琉球の神話には「神が造られた聖地である」と記されており、首里城内で最も格式の高い拝所の一つとされています。
御庭(うなー)へ続く最後の門、神を敬うという意味の奉神門(ほうしんもん)。奉神門には3つの入口があり、真ん中の入口は国王や中国皇帝の使者など身分の高い人だけが通ることができました。それ以外の役人は両端から入場しなければいけませんでした。
また、奉神門の向かって左側は薬やお茶、煙草などの出納を行う納殿(なでん)、右側は城内の儀式に使われる君誇(きみほこり)として使われていました。奉神門から先が有料エリアとなっています。
奉神門をくぐると、目の前に正殿が現れました。何と言っても目を引くのは赤と白のボーダー柄の広場。ここは御庭(うなー)と呼ばれる重要な催事を行う場所でした。奉神門から正殿に向かいまっすぐに伸びる赤い道は「浮道(うきみち)」といい、国王と中国からの使者等限られた人だけが歩くことができました。赤と白の床は磚という敷瓦で、儀式の際の立ち位置を表しています。
琉球と中国は長い間、朝貢関係にありました。琉球の王が亡くなると、中国から使者が訪れ、中国皇帝の名において新たな王を認める冊封(さっぽう)という儀式が行われました。冊封の際に訪れる使者は冊封使と呼ばれ、数百人もの人が数か月にわたり滞在しました。冊封は国をあげて行われる琉球最大の儀式でした。
色鮮やかな彫刻が美しい正殿。ラストエンペラーで知られる紫禁城のような二層の中国風の建物に寺院や神社を思わせる唐破風。中国と日本の文化が融合しているのが琉球のお城なんですね。とてもおもしろい。正殿は14世紀末頃に創建されて以来、幾度となく消失していて、1992年に復元された現在の正殿は18世紀初めに再建され沖縄戦で焼失するまで残っていたものがモデルなのだそう。
正殿の石段の両側には大龍柱が置かれ、その欄干の先には小龍柱が置かれています。さらに、正殿の柱に描かれた金色の龍、それら全て阿形と吽形の対になっています。また、これらの龍は4本爪をしています。中国では通常龍の爪は3本に描かれますが、皇帝の龍だけは5本爪で描かれ、皇帝に許されたものは4本爪で描かれました。
正殿に向かって右側の建物は手前が番所(ばんどころ)、奥の2階建てが南殿(なんでん)です。番所は城内に訪れた人の取次をする受付のような場所でした。南殿は薩摩藩の役人の接待が行われ、年賀や節句などの日本式の行事が行われました。そのため、建物も日本式で彩色されていませんでした。
左側の北殿(ほくでん)では琉球王国の中央政庁として大勢の役人が出入りしていました。冊封使をもてなす宴も北殿で行われました。琉球の中枢ともいえる北殿は琉球の建物となっています。
現在、南殿・番所、書院・鎖之間、黄金御殿・寄満・近習詰所、奥書院、正殿、北殿の内部を見学することができます。まずは番所から靴を脱いで建物に入ります。
書院は国王が執務を行った場所です。側近や取次役がそばに控え、国王への報告や面会が行われました。時には冊封使や薩摩藩の役人を接待することもあり、冊封氏が庭園を称えた唄が残されています。
国王が執務の合間に休憩をとった部屋が奥書院です。書院の庭園は多くの人に見られるいわば公の庭園。一方、奥書院から見える庭園は国王のためのプライベートなものでした。現在、古写真や絵図をもとに復元されています。
正殿の裏側は御内原(おうちばら)とよばれ、国王とその家族とそれらに仕える女官の約100人ほどが住んでいました。御内原は国王と家族を除き男子禁制だったため、御庭側と鈴を鳴らして合図していました。また、女官たちは淑順門を使って御内原に出入りしていました。
柱から壁に至るまで漆の赤色。ここは正殿二階の大庫理です。国王と家族しか入れない大庫理では王族と神女たちが儀式を行う格式高い場所でした。
大庫理の中央には国王が座る御差床(うさすか)が置かれ、その後ろには中国皇帝から贈られた扁額が数多く掲げられています。柱に描かれた黄金の龍、御差床の見事な彫刻、豪華絢爛なしつらえに驚かされます。
正殿の一階は下庫理(しちゃぐい)と呼ばれ、国王みずから政治や儀式を行いました。御差床の裏に二階へ通じる階段があり、国王はこの階段を利用して二階の御差床に着座しました。左右にある平御差床(ひらうさすか)は国王の子どもや孫が座りました。
4度の消失と再建を繰り返している正殿。現在、本来の遺構を保護するため約70cmほどかさ上げされています。正殿の一階では床の一部がガラス張りになっており、本来の遺構である琉球石灰石が積み上げられているところを実際に見ることができます。
首里城の石垣を見ていると、ところどころに古さの異なる石が積まれていることに気づきます。北殿では石材や石積みについてクイズ形式で学ぶコーナーや冊封についてのパネルがあり、首里城だけでなく琉球の文化を知ることができます。
北殿から有料エリアを出ました。正殿の北側にある淑順門は御内原で生活する女性たちが使用する出入口でした。
首里城とは役所でもあり、王族の住居でもあり、人々にとっての聖地でもありました。中国と日本の狭間にありながら独自の文化を発展させた琉球王国。首里城の中には琉球王国そのものが凝縮されています。
せっかく沖縄に行くなら琉球を知って、より楽しみたいですよね。そんな方には首里城と合わせて龍潭(りゅうたん)や玉陵(たまうどぅん)も見学してみてくださいね!
住所 | 沖縄県那覇市首里金城町1-2 |
営業時間 | 4~6・10~11月/8:30~19:00(入館券の販売締切18:30)、7~9月/8:30~20:00(入館券の販売締切19:30)、12~3月/8:30~18:00(入館券の販売締切17:30) |
定休日 | 7月の第一水曜とその翌日 |
駐車場 | 116台(有料) |