与論城跡は与論島で人気の観光スポット。

与論城跡

公開日:2017.7.29

与論城跡

ここは与論島の南の高台。与論城を紹介する前に、まずは歴史のお話を少しだけ。

昔のおはなし

今帰仁城

(写真:今帰仁城)

むかしむかし、琉球の人々は農耕で暮らしていました。そのうち集落をまとめる長が出てきます。長は近隣の集落と統合し、より広域を支配していきます。そして「按司(あじ)」と呼ばれる権力を持った指導者が登場しました。按司は防御施設としてグスク(お城)を造り、勢力の拡大を図っていきます。

今から約600年前、北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の3つの按司に支配され、琉球は3つに分かれていました。(三山時代)しかし、100年続いた三山時代も徐々にそのバランスを崩そうとしていました。

与論城からの眺め

その頃の与論島は今帰仁城に城をもつ北山王国に属していました。北山王(ほくざんおう)である怕尼芝(はにじ)は息子・珉(みん)の長男・攀安知(はんあんち)に今帰仁を、次男・真松千代(ままちぎちよ)に沖永良部島を、三男・王舅(オーシャン)に与論島をそれぞれ治めるよう命じます。そして1405年、北山王がいる沖縄本島を望む与論島の南の高台で与論城の建設が始まりました。

首里城

(写真:首里城)

それから10年後、1416年に大きな事件が起こります。今帰仁を治めていた攀安知は中山王の尚巴志(しょうはし)に攻め滅ばされてしまいす。今帰仁城が落城すると与論を治めていた王舅もまた自害に追い込まれました。当時、建築中だった与論城も未完成のまま今に至るとされています。

北山を倒した中山は1429年に南山を統一し琉球王国が誕生します。琉球王国はそこから450年に渡り繁栄することとなります。

与論城を歩いてみよう

与論城跡

さて、歴史の話はここまでにして、さっそく与論城に行ってみましょう。

与論城は与論島の南、標高94mの高台にあります。丘の中央にちょこんとある建物がサザンクロスセンター、その右側あたりが与論城跡です。

与論城跡へ向かう途中の鳥居

サザンクロスセンターの横、地主神社(とこぬしじんじゃ)の駐車場に車を停め、鳥居に向かって歩きます。

与論城跡の看板

鳥居の手前右手にある石垣が与論城の城跡。看板があるのですぐにわかりました。

与論城跡の石垣

与論城の石垣に使われている石はゴツゴツしていて大小のたくさんの穴が空いています。これはサンゴ礁が堆積してできた琉球石灰岩というもの。沖縄本島のグスクも琉球石灰岩からできています。

与論城跡

ゆるやかなカーブを描きながら続く城壁の横を進んでいきます。

サザンクロスセンター展望台

(写真:サザンクロスセンター展望台より)

与論城の石垣伏せた竜をかたどって造られたといわれています。上から見た写真でいうと、右下が竜の頭。そして地主神社の本殿の当たりが胴体、そして海側に続く石垣がしっぽの部分。この石垣はかつて海岸線まで続いていたそうです。また、サイズ感こそ違えど、北山王の居城であった今帰仁城によく似ているとも言われています。

与論城跡

さて、竜の頭の方へ実際に行ってみましょう。正面に何か碑が見えてきました。

与論城跡の「龍頭」

これが伏せた竜の頭、「龍頭」。かなり崩れてしまっていますが、積まれていた石が多く残されています。

与論城跡

龍頭は周辺より1段高く積まれ、主郭(本丸)があったと推定されています。その眺望は素晴らしく、天気が良ければ沖縄本島が見渡せます。(現在はかなり崩れてきているので上にのぼるのはあまりおすすめできません。)

与論城跡

龍頭から地主神社を眺めるとその高低差がわかりますね。
何よりも高く、きっとここには一番重要なものがあったのではないでしょうか。

石垣を見てみよう

与論城跡

では、石垣の積み方を見てみましょう。

与論城跡の石垣

石自体を細かく加工している様子はなく、自然の石をそのまま積み重ねていく「野面積み(のづらづみ)」でできています。石垣の表面もぼこぼこしていて、原始的で古いタイプの積み方ですが、それでも600年もの間風雨に耐え、強固な造りであることがうかがえます。素晴らしい!

与論城のまわりを散策してみよう

与論城跡を散策

地主神社の本殿を右に曲がると小路がありました。ハイキング気分で散策してみましょう。

与論城跡を散策

左手の崖の上が地主神社でしょうか。道に沿って進むと、標高がどんどん下っていきます。

このあたりを歩く場合は虫よけスプレーがあると安心です。草も生い茂っているので肌の露出は抑えめに。(といいながらスカートだったので、かゆかった!)

与論城跡を散策

なんだか異空間。こうして見ると与論城のある山は巨大な岩でできていることがわかります。

与論城跡・木の根のアーチ

その岩肌にマングローブ?木の根が張りめぐらされ天然のアーチを作り出しています。神秘的な空間に思わず感動。お城に興味がなくてもこの場所にはぜひ行ってみてほしいです。

与論城跡を散策

森の中を突き進んでこの階段を下りてきました。ツタが生えていてわかりにくいですが、この階段かなり古そう。

与論城跡を散策

階段の下には礎石が残っていました。門が立っていたのかな。どのくらい古いものなのかはわかりませんが、琉球石灰岩でできているようでした。

与論城跡を散策

礎石を過ぎると、人工的な道を発見!まだまだ下へ降りられそうでしたがタイムアップ。この道へ合流せずに下へ降りていくと翔龍橋に出るそうです。

与論城遊歩道へ合流

与論城跡の遊歩道

無事に遊歩道に合流しました。ずっと森の中を歩いていたので人工的な石の道に少し安心。

与論城の標高は94m。こうして実際に歩いて登ってみるとなかなか大変です。

与論城跡の岩壁

まさに海の底から突き出てきたような荒々しい岩壁。与論城の城壁もこの岩からできているのでしょうね。

与論城跡

だいぶ上まで来ました。巨大な岩と岩の間を抜け、さあもうひと頑張り。

頂上に到着

与論城跡の頂上に到着

ついに頂上に到着!サザンクロスセンターのてっぺんが見えています。地主神社の裏を下り始めてからここまで約20分。なかなか長い道のりでした。下まで行っていたら大変でしたね。

上から見た与論城跡

まるでご褒美のように素晴らしい見晴らし。少し汗をかいたので風がきもちいい!

与論城跡の遊歩道

ん?青い何かを発見

ヤンバルクイナ

正解は巨大なヤンバルクイナ。あれ、ヤンバルクイナってこんなに青いっけ?(笑)

与論城跡の記念写真スポット

なんだか解せない気持ちで歩いていると記念写真スポットを発見。

与論城跡の看板

誰でもこんな写真が撮れちゃいます。

与論城跡の遊歩道

遊歩道周辺にはベンチもあって景色を見ながら過ごすこともできます。

地主神社へ行ってみよう

地主神社の前の広場

さて、1周して戻って来ました。ここは与論城の城内、地主神社の前の広場です。ちょうど与論十五夜踊りの準備が進められていました。

与論城跡
与論十五夜踊り
与論十五夜踊りは五穀豊穣、心中安穏、無病息災を祈願して毎年旧歴3月・8月・10月の15日に地主神社へ奉納されます。与論城内を舞台にして本土大和の能・狂言風の一番組と琉球風の二番組に分かれ交互に踊ります。国の重要無形民俗文化財に指定されています。8月には獅子舞と大綱引き、10月には奉納相撲も行われ、多くの人でにぎわいます。
地主神社と琴平神社

地主神社と琴平神社にお参り。

手水舎

手水舎で手を清め、横の階段を上ります。

辺後地拝所(ぴぐちうがん)

地主神社の拝殿の左手には辺後地拝所(ぴぐちうがん)があります。拝所とは沖縄の御嶽のようなもので、神に祈りを奉げる神聖な場所です。陽の神を祀る辺後地拝所は、古くから与論島の中でも最も重要な場所とされています。

辺後地拝所(ぴぐちうがん)横の王舅墓

その辺後地拝所の横には与論城を築いた王舅が眠っています。築城中に今帰仁が攻め落とされ、王舅は自害に追い込まれます。王舅の遺体は側近のみで辺後地拝所に密葬され、それを隠すため島民に鎧を着せ、崖の下に偽の墓をつくって盛大な葬儀を行ったそうです。遺体を残せばよみがえると信じられていたんですね。

与論城跡の曲輪

さて城内に戻って来ました。城内は土俵がある曲輪とそこから一段上がったもう一つの曲輪があります。その段差は昔からあったかどうかは定かではありませんがとても古い石垣でできています。

本土復帰記念碑と満州開拓団慰霊碑

一段上には本土復帰記念碑、満州開拓団慰霊碑があります。

与論城跡の石垣

駐車場へ戻る途中、しっかりと角が出ている石垣を発見。積み直されているのか、元からあったのか、ついつい写真を撮ってしまいました。

おわりに

与論城跡

いかがでしたか?古から陽の神につながる神聖なこの場所は三山時代にはグスクが築かれ、そして今もなお信仰と人々の集いの場として重要な場所となっています。

与論城のすぐ隣には与論島の歴史や文化を学べるサザンクロスセンターがあります。5階の展望台からは与論城全体を見ることができるのでぜひ行ってみてください。

基本情報

住所 〒891-9302 鹿児島県大島郡与論町立長3313
TEL 与論町商工観光課 0997-97-3111
料金 無料
駐車場 あり